2007年12月18日

118号

深く信じることあたわず、疑惑を生じるもの、
念仏すといえども、往生することを得ず
〜融通念仏宗「信解章」より


お彼岸は、ご存知の通り、この岸(此岸)から彼の岸(彼岸)に至るということです。
このことはよくご存知だと思います。

では、彼岸に渡るためには何が大事でしょうか?
当然一番目は、彼岸に渡りたい、仏になりたい、仏に近付きたいという願いが必要です。
先ず【願】です。願いが生まれたら次はお念仏の【行】です。
お念仏を唱えて彼岸に至る、仏に近付くという悟り、これは当然の行為です。

しかし、それよりも大事に心に留めなければならないのが、【信】なのです。
どんな信、何を信じるのかというと、『全性成修』
つまり「性を全うし、修を成ず」といって、私たち一人一人に仏性、つまり仏の種が確固たる信念があるからこそ、お念仏を唱えさせてもらうのだ、という信なのです。v それが先ず大事ですよということなのです。

『全性成修』というお言葉は信じきるということです。
だからこれをただの信ではなく、深く信じることなので【深心】といわれています。

信解章の中の最初のお言葉は、
「念仏往生を深く信じることのできないものは、特に疑いのある者は、たとえ口に念仏を唱えても往生できない」という意味です。

もっといえば、わが心には仏性があると深く信じきれない者は、
念仏唱えていても、でまかせの念仏を唱えているだけで、彼岸に至ることも、仏性を見出すとか仏に近付くということにはなりません。
そんなのは、形だけで、念仏行とはいえません、ということ厳しいお言葉なのです。

だから『信』、それも信じきるという『深心』をもってお念仏を唱えていただかなくてはいけないのです。
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2006年01月01日

117号 - 念仏行で自己を見つめよう

仲間と別時念仏会(念仏を称える行)を始めて五年以上になりました。
念仏を称えれば称えるほど、真実を求めようという仏教者とかけ離れていく自分を見せられます。
しかし念仏を称えさせてもらっているお陰で、自己を知ることにつながっていることは確かです。

先日躁うつ病で悩んでおられる方が自殺されました。
仏教の教義から自殺はこう考えていると語ることは簡単です。しかし仏教者として、私がどんなことが出来るかと悩んでいました。
死を前に立っておられる時、慰めの言葉も希望も与えられない自己につきあたります。また心を痛めて愛するものに対してひざまずいておられる方に、この地上の希望や助けだけでは、本当の力にならないと知っていても、スプリチュアル(魂)の助けも見つけられない自分がおります。

それは私の中に誰よりも、自分の利益を先にする欲望が働いているからでしょう。
また自分の弱さを正直に裸に出来ない高慢さが自分に満ちているからでしょうか。
そのようなどうすることも出来ない自分自身、それでも自分と付き合うことしか生きられない現実、生きる運命的な悲しみを感じます。
誠実でない自分を見るとき、自己嫌悪におちいっていきます。自己嫌悪におちいってもそれでもその自分を背負わなくてはいけない現実。

親鸞上人は
『悪性さらにやめがたし、こころは蛇蠍のごとくなり』
「悪に侵されいっこうにそれをとどめることも出来ず、わが心は蛇やさそりのように醜い」とおっしゃいました。

つまり、私は自分自身のことが分からない、真実に生きようと、人を救おうと欲することは出来ず、
かえって反対のこと、憎むことをしているということです。
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116号 - 自他力融通のお念仏とはB?

『譬へば人あって、大なる石塊、その数千百をもって、大海を渡らんと欲す。
船力をもっての故に、即ち彼岸に達るが如し。衆生の罪はなお巨石の如し。
弥陀の願力は彼大船の如し。石もと沈み易し、船によって渡すべし。』 (融通念仏宗信解章より)

最初に申し上げましたように、船乗り場までは、自分が行じる念仏によってたどりつかなくてはけません。
たどりつけば、煩悩という欲や怒り、愚痴が無くなりましたじゃなく、その煩悩を持って、仏に背いている私だったと気づくことが、船乗り場にたどり着くことでした。
これを前の念仏が事で「前念命終」と言いました。船乗り場まで着けば、後は自分の力では、彼岸に達することはきません。

なぜなら、この喩えのように『石塊』とは、私たちの煩悩のことです。しかもたくさんの煩悩や大きな石のような罪まであります。そんな大きな重たい石を持って、自力では海を渡れません。すぐに溺れてしまいます。
だから阿弥陀さまという船の力(他力・願力)によって渡らせていただいて始めて彼岸に到達できるのです。

この阿弥陀さまという大船に乗って唱えるお念仏(他力)を「後念即生」と言いました。

この喩えのように、石は沈みやすいので、阿弥陀さまの願力という他力の船によって渡って行きなさいよと教えられているのです。
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115号 - 自他力融通のお念仏とはA?

114号では、船乗り場までは自分で行く、つまり自力のお念仏行であることを説明たしました。今回はたどり着いた岸からは、阿弥陀さまの願力(他力)によって、悟りの岸(彼岸)にいかせていただくお念仏について考えましょう。

自力の念仏によって、前なる妄念を持つ自分が明らかになりました。(前念命終)
しかし煩悩は無くなったのではなく、煩悩を持つ我が身が明らかになったのでした。つまり、船に乗る前に煩悩という荷物を捨てたのではなく、持ったまま阿弥陀さまという船に乗るのです。

煩悩を持ったわが身だからこそ、後は願力(他力)という阿弥陀さまの船に乗せていただき任せるしかないのです。
よって船に乗ってお称えするお念仏は、阿弥陀さまにお任せしている他力のお念仏、つまり『後念即生』と云い、まさしく往生のお念仏なのです。

そうすれば、本来の人間のあり方に還らせていただけるのです。自分にとらわれない、自分だけにかたよらない、楽な安らいだ生き方n還らせていただけるのです。

そうすれば、自分と相手、周りが一つになるのです。
分かり合い、肩組みあう世界、まさしく融通念仏が説く「一人一切人、一切人一人」の世界なのです。
そうなれば家族関係も、子のお陰で親にさせてもらい、妻のお陰で夫に、孫のお陰でおばあちゃんにさせてもらった、そういう響き合う世界になるはずです。
1+1=2という計算の世界ではなく、1+1=3、計算では計れない世界こそが、響き合う「一人一切人、一切人一人」の世界そのものなのです。

罪や煩悩を背負ったままで船に乗ったような、阿弥陀さまの願力(他力)によった、『後念即生』のお念仏にさせていただきましょう。
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114号 - 自他力融通のお念仏とは@?

欲にふけって真実心を失う貪り、腹を立てて生きるものの命を害う瞋り、心迷って仏の教えを知らない愚かさ。仏教でいう三毒です。その底にあるものが『無明』といわれる煩悩の根本です。
明るさがない、暗い、闇で真実が見えない、道理が分らないことです。真っ暗なので、わが身さえも分らない状態。現代人は地峡の裏まで知っているけれども、少しも分っていないのが私、自分自身なのです。

その暗闇に光をさしこんでくれるのがお念仏なのです。光が照らされれば何が見えてくるでしょうか?誰よりもわが身がかわいいという自分が見えてきませんか?私が楽をするためには、他の人を踏みつけても、引きずりおろしてでも、蹴落としてでも、わが身は楽をしたいという自分が見えませんか?

闇が破れて、欲や腹立ち、憎しみがなくなりましたじゃないのです。念仏申すことを喜んでいない私や念仏申しながら仏に背いている私が見えてくるのです。煩悩の中に身をおいている自分を知らせていただいたのです。

お念仏を称えるということは、今までの罪や煩悩が、「ハイ」無くなりましたというものではなく、自分自身の罪や煩悩に気づかせていただくことなのです。
これを『前念命終』といい、前なる妄念、つまりいつでも「この私が正しい、自分は偉い、自分は賢い、自分は善人」と思い込んでいます。すると当然「悪いのは相手、愚かなのは向こう、間違っているのはお前」になります。そこには自分さえよければ他人のことは思わなくてよい。自分の思い通りにしたい、思い通りになって当り前となり、最近では親子の殺人なまでなってしまっているといえるでしょう。「邪魔者は殺せ」で、親子・夫婦でも排除です。「それは通らぬぞ」と呼びかけて下さっているのがお念仏なのです。
「かわいいというわが身がみえてくる」「あ、そうでしたか、私が間違っていました」と分かれば、殺し合いなどないのです。これこそが『前念命終』の世界なのです。

阿弥陀さまに先ず自分から近付かせていただくという、自分の力でお称えするというお念仏なのです。彼岸に渡る船の岸までは、自分が発心(発菩提心)して行かせていただくためのお念仏なのです。前念命終までは、お念仏行なのです。いわゆる他力に対する自力のお念仏といえましょう。
(続く)

(次回は、阿弥陀さまの願力によらなければ彼岸に渡れない他力の念仏について説明します)
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103号 - さとりと煩悩

仏像のしわ


仏像の首にはしわがあるのを皆様はご存知でしたか?
しかもしわの数は必ず三本なのです。三本刻まれています。だから首に三本のしわがない仏像は偽物なのです。
この三本のしわは、いろんな解釈がありますが、主に普通、前号でお話いたしました地獄・餓鬼・畜生という三道を表すか、煩悩を表すとか言われています。

さとりと煩悩

三毒の煩悩


煩悩のまず一つ目は『貪欲』 。これは貪(むさぼ)りのことです。
自分にとって都合のいいもの、好きなものを手に入れようとする気持ち。とにかくたくさん手に入れようとする。
お金、名誉、家、あるいは人の心だとか、様々なものを手に入れようとする心を貪りといいます。

二つ目は『瞋恚』 (しんに)。
漢字が示していますように、目を真実にするということで、かっと目を見開いて怒るということです。この状態を「瞋」といいます。
「恚」は、土が二つ書いてあるように、硬くなった土のような心です。
二つ目の煩悩は、自分にとって嫌なものは徹底的に排除しようとする心です。
見たくない、触りたくない、聞きたくないという心が怒りなのです。

一つ目の貪欲は、自分を中心にして、前に向って手に入れようとする、欲しい欲しいという心。
これに対して瞋恚は、今度は後ろに向って、嫌い嫌いと遠ざかっていく、バックする心です。

この二つの心を最後につかさどっているのが『愚痴』 です。
これが正しく貪りや怒りという気持ちを動かせている根本にある心です。
いつまでも、いつも百パーセント自分の事しか考えられない心を愚痴といいます。

この三毒が仏像の首のしわなのです。貪りのしわ、怒りのしわ、愚かさのしわなのです。


なぜしわが?


煩悩を吹き消した状態(涅槃)なのに仏像にはなぜ三毒の煩悩のしわがあるのでしょうか?
お釈迦さま自身が、この三毒に悩み苦しまれたからこそ、それを首に刻まれたのです。
お釈迦さま自身にも貪りがあり、怒りがあり、愚かさがあったのです。

この「煩悩の自覚」「愚かさの自覚」に深く気付かれたからこそ、さとりへの道があることが分かります。
私たちもしわがあったほうがいいのです。苦労や人生の経験を経てきた者こそが、何が安らぎかをご存知じゃまいでしょうか。
煩悩に気付く世界があること、煩悩があるからこそさとりへの道も開かれるのです。

さとりへの第一歩は、手を合わせて念仏を称えながら仏に背く自分自身であることを深く自覚することが大切なことなのです。

さとりと煩悩

先ず念仏を!


煩悩の自覚に気付くためには、とにかくお念仏を称えなければ始まりません。
炭が熾っている火鉢に、そこに手を入れたら熱いだろうな、火傷するだろうなと百年思っても火傷はしません。

それと同じように、お念仏を称えなければ、いつまでたってもさとりへの道は開けません。心の安心への道は閉ざされたままです。

理屈じゃなくとにかく念仏行という実践、お念仏を唱えるということが何よりも大切なことなのです。
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102号 - 阿弥陀経の世界

阿弥陀経とは、深い悲しみの中から人々に、人間同士が敵と味方に別れて争い殺し合う愚かさに気付き、共に生きる世界を願い求める意義を明らかにしたお経です。

つまり、「極楽世界」「浄土」として表現することによって、私達の心の奥底に眠っている仏性(如来蔵・仏の種)である『共に生きる』ことへの深い意欲を呼び覚まそうとして説かれた教えなのです。

そのような地獄・餓鬼・畜生というような現実生活の中から、そのような状態をなくす誓いと願いを基に建立されたのが、共に生きるいのちの原風景ともいえる極楽浄土の世界なのです。
このお経の中でそのことを表した箇所を紹介しましょう。

阿弥陀経の世界

【彼仏国土、無三悪趣、舎利弗、其仏国土、尚三悪道】
(極楽世界は、三つの迷いの悪道がない。それを表す名称すら存在しない)
三悪趣・三悪道とは、人間の存在そのものが脅かされて、不安と苦悩で生きている姿です。
この最大の苦悩をお釈迦さまは晩年に経験されます。
戦争によって、自分の 釈迦一族が皆殺しにされるのを目の当たりにされるのです。
その時に弟子に『舎利弗よ、三悪道のない世界は遠いな』と叫ばずにはおれなかったのです。

阿弥陀経の世界

でも、そのような最大の苦しみにもかかわらず、「極楽世界は必ずあると信じ三悪道のない世界を願い続け、共に生きる極楽浄土を建立されたという伝承を今なお生き続かせているのが阿弥陀経なのです。
そして、お釈迦さまは次にこのようにおっしゃっています。
『すべては燃えている。それは貪欲の炎に燃え、瞋恚の炎に燃え、愚痴の炎に燃えているのだ』

つまり、地獄・餓鬼・畜生という三悪道の苦しみの社会を作り出しているのが、
まさしく私達の心にあるこの貪欲(欲望)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)と言われる三毒の煩悩であるとおっしゃられているのです。
今の現実生活そのもののように、私達の一人一人の心のあり方が、現実の三悪道をつくっているのです。

このようなお釈迦さまの覚りから、どんな苦しい時でも前に生きる力を与えてくれるのは、
《わが心こそが三悪道のない世界である極楽浄土》
《わが心にこそ仏》
という強い信心なのです。

これこそ、目先の病気が治るとかお金が儲かるというような現世利益的な信心ではなく、
生きるうえで安心(あんじん)を与える本当の信仰心と言えるのではないでしょうか。
そして宗祖は、私達はすぐに楽をして忘れてしまう人間なので、念仏行というものを通して、このお釈迦さまの説かれた阿弥陀経の世界をわが心に顕現していくことをお勧めされたのです。

私達は常にお念仏を称える行を通して、わが心こそが三悪道のない世界である極楽浄土、わが心にこそ仏という金剛の信心を築きあげていただくことを願っています。
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101号 - 疑いから始まる信心

私たちの宗派では、お念仏を『行』としてとらえています。
日課の百篇は個人でお唱えするのですが、それ以外に皆でお唱えする「別時念仏」という行があります。
私たちの僧侶仲間も、毎月別時念仏会を行っています。

これらの行は、【私自身が仏】(己身の弥陀)を信じ、仏と我が一体(不ニ)になる禅定体験です。

疑いから始まる信心

しかし正直私自身も、こんな欲だらけの煩悩にまみれた私がなぜ仏なんだ、と疑いはぬぐえません。
つまり、常に疑いながら己身の弥陀を信じている感じなのです。
もっと言えば、念仏で救われるのか?
念仏を唱えれば幸せになれるのか?という疑いがあるのです。

疑いとは、仏法を誹謗することになり、当然仏に背いている行為なのです。
しかし、親を疑い否定し反抗して親不孝したからこそ親に出逢うってことがあります。
それと同じように、仏に背くことを通して、愚かな自分に出あう、念仏申しながら手を合わせながら仏に背く自分が明らかになります。

その時には、疑うという事と信じるということが結びついているのです。疑いと信心が不ニなのです。

煩悩の自分に気付いて、さらに念仏行に励まされるのはなぜでしょうか?
こんな私でも仏(己身弥陀)と、お祖師を通してお釈迦様が経典で申されておられることを信じさせていただけるからなのです。こんな幸せな事はありません!
こんな有り難い事はありません!

己身弥陀を信じて、お念仏行をさせていただければこそ、煩悩を明らかに観る自分、感謝できる心を持てる自分など、いろんなことに気付かされるのです。
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